History

当店の歴史をご紹介いたします。

㈱安藤植木店 前社長 安藤政廣

 

当店はまだ入谷田圃と呼ばれていた頃より、朝顔・小菊等季節の草花を栽培しておりました。近所では金魚を養殖したり、蓮を栽培する家があったりしてかなりのんびりしていた時代です。

初代2代目 安藤辰之助

私の父、安藤辰之助は明治27年生まれで、小学校の義務教育も4年の時代でした。私立渡辺小学校を卒業。のちに東京市か下谷区(太平洋戦争後浅草区と合併して台東区となる)がこの小学校を買収し、区立の小学校になりました。

さて、父は小学校を卒業し10才で家業に入りました。近所に田圃や金魚の養殖池・朝日弁財天の1万数千坪の池が有り、用水路がそこらに有る景色を思い浮かべてください。草花を栽培する土地は新潟県の豪農市島家から借りたものです。道路に面したところは地代が高いので、いくらか奥まった場所のようです。栽培に使う用土は栄養豊富な用水路の土を掘り、使っていたそうです。

明治45年1月  辰之助(前列左) 18歳の頃  

栽培した草花は神社仏閣の縁日や山の手の夜店等で売りさばいたそうです。港区の愛宕神社の縁日はよく売れたと言ったのを覚えています。10才の子どもが入谷から愛宕まで大八車に植木を積んで売りに行くには大変なことだったと思います。もちろん道路はデコボコの砂利道と思います。 大八車といってもわからない人が多いでしょうね。車輪の幅が4CMくらいしかないのでぬかる道では難儀する代物です。現代では車が人を轢くが、昔は人が車を曳く時代ですからね。

夜店では花を売って夜中すぎに帰途につくのでしょう。その頃はあちらこちらに一膳飯屋が夜通し商っており、帰り際連れたって寄った様です。年配者は酒を飲み、父親や子供に近い者は腹を満たし、売れ具合や世間話に花を咲かせたのだと思います。腹はくちくなり、疲れと眠気で時々大八車ごと用水へ落ち、仲間に引き上げてもらったそうです。

今の場所へ移ったのは関東大震災後の区画整理で換地された為です。歩道を含め幅33mの昭和通りが出来たのもこの時期です。後藤新平の大風呂敷と言われ、こんなに広い道を作ってどうするのかと笑われたそうです。現代ではこれでも狭いと拡張の予定があるのですから後藤市長は先見の明が有ったのですね。

朝日弁財天の大きな池は地震で倒壊した12階建てのビルや下町のガレキ等で埋められ、区画整理で都市化し、草花作りもやりにくくなってしまったのです。この為か草花の生産から盆栽屋へ変わっていきました。

 

父 辰之助(後列左から2番目)「安堂う」

途中兵役があり、海軍の水雷兵として巡洋艦榛名に乗り込みました。大演習の時一度天皇のお召し艦となり、この為艦内に飾る盆栽の管理をする役を命令されました。盆栽にかける水は真水でなければなりません。水平はスコールや夕立で雨が降ってくると全員甲板に集まれの号令がかかり雨水で石鹸を使ったと聞きました。雨水で身体を洗えない季節等は真水は手桶に2杯と厳しく制限されていたそうです。しかし盆栽にかける水は無制限でした。そうでしょうね、天皇陛下に見ていただく盆栽ですからね。超高級品でしょう。

まだまだ自動車が普及する前の事です。横須賀の海軍鎮守府に乗用車が一台有るのを見かけたという時代ですから。巡洋艦榛名にはエアコンもエレベーターも付いていたと言っておりました。エアコンは弾薬庫の気温を下げるために、エレベーターは砲弾を砲座まで上げる為に。兵は当然階段を上下したのでしょう。艦は多分英国製でしょうね。

植木組合大会 昭和15~16年くらいか・・・

父親も軍を退役後は盆栽業に精を出しました。毎月22日に自分の家で業者の交換会が行われました。まだ市場の無い時代ですから。業者同士の取引は交換会で入札で行われました。そうしたものが毎月あちこちで開かれました。支払いは一ヶ月後の延払いです。

ある時前月買った支払いが間に合わず雪の中をお客様の家へ集金へ行った時です。市電も止まり難儀して帰ったそうです。その日が後に言う2.26事件の日です。100円札で支払いを受けると市島家へくずしてもらいに行ったそうです。今でいうなら10万円札か100万円札ぐらいでしょうか。他ではくずせなかったと言っていました。

       

浅草 富士植木市 昭和12年6月1日

浅草 富士植木市 昭和13年7月1日

太平洋戦争もはげしくなり、昭和19年1月に長男(私の兄)の乗った潜水艦が撃沈され戦死。昭和20年3月にB29の空襲で家を焼かれました。一生懸命に育てていた杉の盆栽もすべて焼けてしまいました。

戦後は盆栽では食べていくことができませんでした。たまに進駐軍の将校が来て買ってくれることはありましたが。日本中が大変な時代でしたからね。

そこで庭木に商売替えをしました。そこらじゅう焼け野原ですから植えるところはいっぱいあります。衣類や食糧等が統制販売されていた時、ヤミで儲けている人もいました。そういう人たちが良いお客様でした。

埼玉県安行から馬車で植木を積んできました。到着をお客さんが待っているんです。飛ぶように売れました。仕入れはもっぱら自転車です。植木は柿やザクロ等実の食べられるものが大人気でした。盆栽屋が庭木を売るのですから苦労をしました。でも自分の家で売り、庭作り等を行いました。時代はだんだん落ち着いてきました。

 杉の盆栽

自動車も増えだし、工場も増産に次ぐ増産で排気ガスが東京を覆いました。民家が密集しだしました。もはやもはや盆栽を作るところではなくなってしまいました。あるとき盆栽の交換会に親父の後について出かけました。当店の売る商品はサツキです。父が丹精を込めて何年も何年もかけて作ったものです。順番が進みうちの番がきました。セリ人の案内を始めたところ円陣の前の方に居た者が「キタナイ幹してるな」と大きな声を出しました。私たちは毎日見ているので葉でも枝でもこれが木の色と思っていました。しかし地方の空気のキレイなところの者から見ると、ハダがススだらけだったのです。松でも他の木でも青さが無く黒くなっていたのです。そんな訳で高級品は無理でした。それにお客様が置く場所がないのです。庭の一日中太陽が当たるところなんて有りません。2階の物干しに置けば洗濯竿を落とされたり、猫に枝を折られたりで邪魔者扱いです。

 上野寛永寺の通り 墓地の横にて

又あるとき、夜比較的大きな黒松を持った中年の男がたずねてきました。荒川区の南千住で大工をやっているが、どうしても金が必要なので大切に育てているこの松を買ってくれと言うのです。でもこの黒松、作ったところは高松近くの鬼無と言う場所のもので、葉は真っ青、幹のハダが実にきれいでとても南千住あたりで作ったものでは無いのは夜目で電燈の明るさでもすぐにわかります。私も父も直感で盗品とわかりました。こちらの態度に男も怪しまれたと感じ、身分を証明できるものを取って来ると言い残し品物を置いたままそれっきりです。翌日警察へ届けました。この松とは数年間も付き合うことになりますが、その時は思いもよらぬことでした。警察へ届けたところ、元の持ち主を捜すからしばらく預かっていてくれとの事。生きものですからやむをえません。しかし1年たっても2年たってもそのままです。時々警察の表彰式や大きな会合で必要になると掛りの人が飾るのに借りに来ました。店でお客様に値段を聞かれても、訳を言って断っておりましたが、3年くらいたってしびれを切らして警察へ何とかしてくれと言いに行くと、書類を調べその様な記録は無いので売るなり誰かにあげるなり好きにしてくれと言われ唖然としました。そのうち書いてが付き売れてしまいましたが、その時はまさに東京っ子の真っ黒い葉、ハダになり、白砂青松の松とは程遠い姿になっておりました。修学旅行で東京へ来た中学生はほっぺを見ると一目で判るのと同じ様に東京育ちと区別できるとは悲しいことですね。そう言う私自身原因の少しは出している訳です。

上野 寛永寺にて 

それと東京の下町では夜霧とかモヤ・霧もすべてなくなってしまいました。冬、霜が降りる事も有りません。郊外では珍しくもないでしょうが、家のあたりでは霜柱やツララも知らないのです。この辺の子供たちは全く可哀そうです。

そんな訳で、今では草花・観葉植物を扱う店となりました。近所にマンション・事務所が増え、屋内で緑と言えばモミジや松ではもちません。亜熱帯の大きな木の下に生えているような植物が脚光を浴び出しました。人はどんなところでも緑がないと寂しいのですね。

日本人は農耕民族です。土と緑は永い間一緒に暮らしてきた大切な物です。切っても切れない無くてはならない潤いです。このコンクリートジャングルでどの様に園芸が変わっていくか分りませんが精一杯ガン張るつもりです。最近では息子と嫁が一生懸命考えて、また別の世界が生まれるかもしれませんが楽しみです。

  昭和29年頃の当店の様子

 

先々代の安藤辰之助のインタビュー記事が1978年の婦人公論に掲載されたのですが、そこから一部引用して記載させていただきます。

「 植木屋の季節  安藤辰之助

あっしは明治27年生まれですからね、今年の7月で84だ。もうこの10年から、仕事はほとんどしてませんや。親父も植木屋で、倅も同じ商売だから、3代です。親父は草花やってたんです。あすこの交番の向こうにいてね、区画整理でここに移ってきたのが、たしか大正17年・・・・そんなはずはないかな、もう忘れちゃったよ。

昔の草花?菊とか朝顔ね。菊なんか1000くらい鉢で作って。朝顔は安いからもっとですよ、5000くらい。それから孔雀草や桔梗・・・・パンジーはそのころ遊蝶花って言って、あったんですよ。

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このへんから根岸にかけて、昔はずいぶん植木屋が多かった。だけど淋しい場所でね。夜店の商売は仕舞うのが2時、3時にもなったりするから、こわくて帰って来られやしないんです。

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(入谷竜泉町 昭和通りに面した店先で)」